21歳、女性:脳腫瘍
脳腫瘍の方で,私の病院ではなく他院での手術です。インターネットを利用してE-mailで文章を送って下さいました。
文章は患者さん本人が,書いて下さいました。
私は21歳の女です。
私の体験したことを書きます。
2003年10月初旬、たまに唇にしびれを感じる。一日に一回から二回ペース。
すぐしびれた感覚はなくなったので、気にしないようにしていました。
10月の下旬、頭痛が始まる。風邪をひいてるときの頭痛とは明らかに違う
ズキズキするような感じで、今思い出すとほんっっとに痛かったと思います。
夜寝ていても、頭が痛くて何回か目を覚ますぐらい・・・。
仕事も休みがなかったので一週間くらいは市販の頭痛薬を飲んで仕事をしていました。
薬を飲まないと動けないくらい、首も動かせないくらいでした。
11月1日、休みができたのでかかりつけの内科の医院に行く。
もし悪ければ、紹介状でも書いてくれると思って、自分の感じる症状は話そうとがん
ばりましたが、先生はあっさり「風邪ですね」と片づけた。
話をちゃんと聞いてくれない先生に腹が立って、泣きそうになりました。
次の日からまた頭痛薬を飲み通勤。本当につらいと感じ始める。頭が痛い。
そして、言いたいことがすぐくちに出てこない・・・。頭ではわかるのに、言葉がでない。
言葉をかんだり、どもったり。「し」といいたいのに、「す」になってしまう、など。
接客業なので、お客さんにお話するときに間違えてしまってもうやばいと思いました。
11月5日、私の21歳の誕生日でした。
休みを取っていたので、近くの公立病院の外来に行く。
自分の中では頭がおかしいと半分わかっていたので非常に気持ち的には落ち着いていました。
相変わらず頭は痛く、吐き気も少しあったように思います。
CTを撮ったあとなぜか看護婦さんが車椅子を持ってきて乗るように言われる。
やっぱりな。。。
脳外科の先生に、出血していると言われましたが、ショックというよりもホっとしました。
自分が今どういう状態なのかやっとわかった!!て感じでした。
一度家に帰ってまた夕方親とくるように言われました。
私はいたって冷静で、ます親に電話をして、帰りました。
帰ったとたん造影剤のせいか、気持ち悪くなり、吐いてしまう。
母に仕事から帰ってきてもらってすぐ病院へ行きました。
ここからの記憶があいまいであまり覚えてないんですが、
すぐ点滴とかされて、次の日にたくさんいろんな検査をされました。
私はずっと夢を見ているような感じでした。
術前の説明を私は聞いていません。母と親戚だけにされたみたいです。
11月10日、手術。
長かった髪を坊主にして、午後1時から5時まで開頭術。
無事終了し、個室に戻る。
麻酔が切れて、自分の名前を何度も看護婦に聞かれる。
痛いし、答えたくない。しつこく聞いてくるのでしかたなく言う。
術後2日くらいはずっと寝ているような感じで、もちろんご飯ではなくすべて点滴から
栄養を取っていました。
頭は痛かったんですが、頭の中ではなく、表面、手術したところが痛いという感じ。
一週間後、点滴がはずされる。
それだけでもすごい嬉しかったのを覚えています。
それからは順調に回復し,術後治療で私は放射線と化学療法も受けました。
はっきり言っていやでした。
髪が抜けるのがものすごく抵抗あって,ただでさえ坊主になり落ち込んでたので
さらに髪が抜けるのはさすがにたえられない!と思ったんですが,
もう先生が決めていたようで,また私のい相談する前に親に相談していたそうです。
私が自分が受ける治療は自分でしっかり納得して決めたいのに,
どうして親に先に相談して,決まったことを最後に私に言うんだろうと
先生に対して不信感も抱きました。
自分が入院してみて初めて思いましたが,医師と患者の間にはやっぱり壁があるとい
うことです。自分が本当になんでも言えて,先生もそれを真剣にちゃんと聞いてくれる。
そんな関係ができている医師と患者って少ないでしょう。
でも本当に信頼できる先生に出会えたら,とても幸せだと思います。
今,医療ミスとか大学病院の体制とか,とりあげられてる問題はたくさんありますが,
私はそれがどの人にもあてはまる問題だと実感します。
あまり病院のお世話になっていない人にも一度考えてほしいと思う。真剣に。
自分はどういう医療を求めているのか,そしてどんな病院を望んでいるのか,
一度考えてみてください。
私はこの闘病生活がいいきっかけになりました。
いろんな人にも出会いました,同じ病棟で亡くなった人も知っています。
だから,こんなに元気になれて,普通に生活できることを幸せに思います。
そして家族や友達や,もちろん先生と看護婦さんにも感謝の気持ちでいっぱいです。
今,私は外来でみてもらいながら,必要なら点滴など治療はしています。
仕事復帰に向けてしっかり治そうと思い,あせらずゆっくりがんばろうと思います。
もし,今闘病している人たちも苦しいかもしれないけど,負けずにがんばってくださ
いね!!
長くなってしまってすいません。
それでは失礼します。
51歳、男性:くも膜下出血
比較的軽症のクモ膜下出血(破裂脳動脈瘤)で,私の病院ではなく他院での手術です。インターネットを利用してE-mailで文章を送って下さいました。
文章は患者さんの息子さんが,書いて下さいました。
この患者さんのように,幸運にも社会復帰ができれば良いのですが,重症のクモ膜下出血では同じ様な経過をたどれない事もあります。しかし,患者さんの家族の目から見た闘病生活の様子が良くでていますので,何かと為になると思います。
まず最初に「発症からの経過」を簡単にお話します。
6月18日 夜10時頃、頭痛を訴えて寝込む。それ以降吐いたり寝たりの繰り返し。
6月19日 朝6時頃、意識が無くなったので、救急車で病院へ。
午前中、写真を100枚程撮影して患部を特定する。
12時半~5時まで手術を行う。
ICUにて入院生活を開始。
6月27日 頭の管を抜く。看病する側からすると一安心。
7月 3日 ICUを出て大部屋に移る。
7月 5日 点滴終了。以後点滴は無くなる。
7月18日 めでたく退院。
以降1~2週間に1回、診察と薬をもらうために通院。
退院から2ヶ月後に、診察は終わり薬もらうだけに。
私生活では、 7月19日 退院の翌日に車の運転を行いました。
7月20日 会社に行って挨拶。以後平日の2~3時間会社で仕事をしました。
8月 1日~ 普通に朝から出勤して仕事を始めました。
10月中旬 ビールを少しだけ飲みました。(本当はもっと前から飲んでいたかも)
11月中旬 少しだけゴルフをしました。
というのが、「発症からの経過」です。
以下は「看病ノート」です。
日数は手術の日から。
1日目 6月19日(水)
・5時間半の手術の後、主治医より詳しい説明あり。手術は上手くいったとのこと。水頭症などにならなければ、かなり元どおりになるそうだ。
・手術後、深夜に点滴の針を刺したところ、「痛て」と言った。
・頭から出ている管はとっても大事なものだ。これが抜けたら死ぬそうだ。
・頭に手が行かないように、手を縛っておくように言われた。
・また、意識が戻っても、無意識に手が頭に行くので、常時手を縛っておくようにとのこと。
2日目 6月20日(木)
・意識が戻り、手・足が固定され、頭は痛いので大暴れする。
・何とか押さえながら説明をして、しばらくしたらおとなしくなった。
・24時間の点滴1本ともう1本の点滴をしている。
・一定時間ごとに自動的に測る血圧計をしている。
3日目 6月21日(金)
・主治医に「会社が心配だ」と言ったところ、「あなたがいなくとも会社は 大丈夫ですよ」と言われ、しゅんとした。
・ヒゲを気にして「電気ヒゲ剃りを持って来い」とさかんに言う。 (電気ヒゲ剃りは頭に振動が行くので、わざと持って行かない)
・「爪切りも持って来い」と言う。
4日目 6月22日(土)
・頭の2本ある管の内、1本を抜く。
・2時間に1回、ICUは看護婦さんが見に来るが、そのとき住所などの質問にふざけて答えるので、まじめに答えるように注意する。
・頭に手がいくのを防ぐために、手を固定するのを自分から進んでやるようになった。
5日目 6月23日(日)
・血圧計を痛がって、起きあがろうとすることがあった。
・看護婦さんに血圧計の圧力を調節してもらった。
・たんがからむので吸入してもらった。
・意識は比較的良い。
6日目 6月24日(月)
・ひげ剃りをした。(ムースをつけて剃刀で)
・お尻がかぶれていたので薬をぬってもらう。(安いオムツでかぶれた)
・会社のことを気にする。「あまり気にするな」と言うと怒る。
・「血圧計が痛い」と言って怒る。(あまり我慢強く無い)
・頭からずい液がもれる。頭帯が赤くなっていた。一針縫ってもらう。
・頭帯が無くなったので、売店で買ってきた。
7日目 6月25日(火)
・回診のときは「順調です」とのこと。少し変なことを言うのも「心配無い」とのこと。
・体を拭くときにお尻を洗ってもらう。お尻のかぶれがかなりひどい。(高いオムツにしているが、安いオムツを使ったかぶれはなかなか治らない)
・今日も会社に電話するように何度も言う。
・熱が38度なので、氷を入れる。
・また、ずい液がもれて一針縫った。
8日目 6月26日(水)
・回診のとき「あと一週間このままの状態なら大丈夫」とのこと。
・体を拭くとき、お尻を洗ってもらう。薬を塗ってもらった。
・紙オムツはむれるので、T字帯をしている。
・便はポータブル便器でさせる。(便意があったとき)
・尿の管の洗浄をしてもらう。その後「ぼうこうが痛い」と言うが異常は無い。
・頭のずい液が漏れがあり、医者に包帯を変えてもらう。
9日目 6月27日(木)
・回診のとき頭の管を抜く。ずっと管を付けていると、ばい菌が入ったりするからとのこと。
・今後注意することは、頭の中の圧力が高くなっているので、頭を痛がったり、吐いたりするかもしれない。水頭症になった場合は、手術をして水をお腹の方へ出すようにする。
・「経過としては非常に順調です」とのこと。少し頭を高くして(30度)様子を見て良ければ、どんどん歩かせます」とのこと。
・今後、水頭症の症状が出たら、医者または看護婦に知らせること。
(1)手足の動きが鈍くなる。または全く動かなくなる。
(2)眠ったままで反応しにくくなる。
(3)全く会話がかみ合わず、変なことを言う。
・寝ていることが多い。頭を痛がる。
・熱が下がらない。38.1度
・いつもより話をしたがらない。(おっくうがる)
10日目 6月28日(金)
・回診時にベッドを起こして良いとのこと。(具合が悪くなったらすぐに止める)
・ベッドを上げたからかどうか分からないが、すごく落ち着きが無い。
・看護婦さんの話では、来週から大部屋に移れそうとのこと。
・会話の様子からして比較的意識が安定しているようだ。
・頭を痛がるが、昨日よりは良いような気がする。
11日目 6月29日(土)
・ベッドを起こすとつらそうに見える。ベッドを起こして食事を取っていると余り食べないが、ベッドを倒して食べさせるとほとんど食べる。
・回診時にベッドを90度に起こす。
・ポータブルトイレで用を足しても良いとのこと。
・もう少しで大部屋に移せます。
・便のため、お腹がはっている様子。時々お腹が痛いと言っている。
12日目 6月30日(日)
・食後少したったら、また寝てしまった。ベッドを起こすのをいやがる。
・便が出そうなので、便器をあてたが出なかった。
・座薬を入れてもらって便をした。
・午前中の回診のとき、頭の傷口を見ていった。この程度なら大丈夫とのこと(頭の腫れ。少し水がたまっている)
・頭の傷をたまにかくので止めさせた。
13日目 7月1日(月)
・回診時、頭に水が少したまっているようだと言っていた。
・尿の管を取ったので、尿の量をはかることになった。
・パンツをはいて尿もれキャッチャーをつけている。
・尿の量をはかって、排尿チェック表に記入する。尿もれキャッチャー分も。
・胸の点滴を取った。これからは、1日1回腕からの点滴だけになった。
・大部屋が今空いていないが、空いたらすぐに移るので、荷物をまとておく。
・看護婦さんが少し歩かせた。トイレまで歩いた。
14日目 7月2日(火)
・入浴の許可が出たので、看護婦さんと3人で入浴させた。
・頭のさらしをやめて、帽子など他のものでも良いとのこと。
・立って歯磨きをさせた。
・今日の午後、大部屋へ移る。
15日目 7月3日(水)
・午前の回診時、頭にたまっている水を注射器で抜いた。
・会社の人が見舞いに来た。変なことは言っていないようだ。
・シャワーをさせた。その後すぐに眠った。
・看護婦さんに「頭が痛い」と言ったが、様子を見ましょうとのこと。
16日目 7月4日(木)
・大部屋はなかなか寝られないらしく、朝食後すぐに眠る。
・動作は鈍いが、だんだん歩き方がしっかりしてきた。
・回診時、頭の傷口が消毒かぶれをしている。多かれ少なかれ血管れん縮が 有るので、皮膚が弱くなっている。
・そろそろ水頭症の症状が出てくるので、ボケのような症状が出てくるかもしれないので注意をする。今までしっかり歩いていたのに歩けなくなったり尿を漏らしたりする。
・水頭症になっても、背骨から水を抜く手術をすれば、ボケのような症状もすぐに良くなるので心配無いとのこと。
・明日もう一度CTを取るとのこと。
・退院はもう少しかかりそうとのこと。
17日目 7月5日(金)
・回診時、本人が「頭の右半分が痛い」言うと、頭全体ではなく右半分が 痛いのは、余り心配がいらないらしい。頭全体が痛いときは、背骨から水を抜くと良くなるとのこと。お風呂に入って、頭を洗った。
・CTの結果、異常はありませんでした。少しは水がたまっているようだったが、まったく問題無い程度です。 とのことだった。
18日目 7月6日(土)
・なるべく起きている方が良いし、話をして脳を刺激した方が良いと看護婦さんに言われた。
・病院内を散歩しているときに、ICUで一緒だった人と話をした。同じことを何度も言っている。 ・少し変なことを言ったり、何度も同じことを繰り返したり、トイレに何度も行ったりすると言うと、これからはどんどん変わっていくので、長い目で見なければいけないとのことだった。
19日目~ はありません。18日目で「看病ノート」は終わりです。 後の12日間は、退屈な入院生活を送って、毎日4~5人の見舞客が来てくれて 話をしていました。
コラム風闘病記
【 1.クモ膜下出血は突然に!】 「クモ膜下出血」はある日に突然にやってきました。「突然死」の 典型的な病気なんだから、突然やってくるのは当たり前なんですね。 (OH脳のホームページによると、なんと「予防」もできるんですね)
「クモ膜下出血」という病名は知っていましたが、父親が倒れるまで 内容は、全く知りませんでした。発病すると3人に1人は、亡くなる 「突然死」の典型的な病気なんだそうですね。 手術の後、主治医の 先生に教えてもらいました。
「クモ膜下出血」で死ななかったのは、本当に幸運です。目立った 後遺症も現在のところ無いので、これまた本当に本当に幸運でした。
「突然死」というだけに、「クモ膜下出血」は突然にやってきました。
いつものように風呂に入って、風呂上がりに急に頭痛がしてきました。 肩も痛くなってきたので、肩に湿布薬を貼り、頭痛薬を飲んで寝て おりました。その後、夜10時頃から吐き気をもようして、トイレと 布団を行ったり来たりです。
「救急車を呼ぼう」と言うと、「頭痛なんだから寝てれば治る」の 一点張りで、なかなか言うことを聞きません。ついに、朝方6時頃に なって、意識が無くなったので「救急車」を呼びました。
救急隊員が来て、患者を見るなり、「こらだめだ! 元どうりには たぶん治らないよ!」と言って、テキパキと担架に積んで運んで 行きました。救急隊員の言葉を聞いて、ことの重大さに気付いた 母親(妻)でした。目の前が真っ白だか真っ黒になったそうです。
さて、病院に行って午前中は、レントゲンやらCTやら100枚程 撮影して患部を特定しておりました。家族・兄弟・親戚の人々が、 徐々に集まってきて、ただただ心配して、うろうろしておりました。
既に「クモ膜下出血」であることは、知っていましたので、みんな 知っている限りのことを、「あーだ、こーだ」と話していました。 要約すると「?さんは後遺症で・・・だ」「?の?さんはちゃんと 元どうりに治って元気にしている」などなどです。
そうこうしている内に手術開始の時間が近づいてきました。
【 2.手術後の大きな10歩】 さてさて手術です。とは言っても手術の前にもいろいろな出来事が ありました。
まずは、手術についての説明です。脳の模型を使ってとっても丁寧に 説明して下さいました。しかし、気が動転している烏合の衆は、 ほとんど理解しないまま説明を聞いているのでした。 (主治医の先生ごめんなさい)
さて問題です。「頭を手術する前に何をすると思いますか?」
答えは、「髪の毛を剃ってきれいに坊主にする」でした。
最近父親は、頭てっぺんの毛が薄くなってきたと、常々気にしており ました。髪の毛が抜けると「あーまた抜けた」と言って、髪の毛を とっても大切にしておりました。「クモ膜下出血」は、そんな思いも 一気に吹き飛ばして、坊主頭にしてしまいました。 (髪の毛より命が大切です)
父親は手術前も、無意識のうちにとっても暴れ回り、看護婦さん 3人と家族2人で押さえつけて手術室に運びました。それにしても 父親の顔は、20歳も若返ったような顔をしていました。 : (手術は5時間半かかりました) : 手術後に父親を運ぶベッドが手術室に運び込まれました。手術は、 もう少しで終わりのようです。
しばらくして、主治医の先生が手術を終えて出てきました。歩く姿が とっても自信満々で、胸を張って堂々と10歩程歩いて行きました。
その後、患者の妻に報告するのを思い出されたようで、5歩程戻り 「手術は、まあまあ上手くいきました。心配いりませんよ」と言って 「詳しくは、後でお話します」と付け加え歩いて去って行きました。
説明を聞かなくとも、手術はとっても上手くいったようです。あの 自信満々の「大きな10歩」が表していると思います。
手術後の説明では、破裂しているのは、枝の枝部分なので出血が 遅かった。言語障害にならないように、右側?から開頭手術をして 出血部分を「クリップ」で止めました。 との説明でした。 (クリップはやっぱり、OH脳のホームページを見ましょう)
説明の後、主治医の先生が「質問ありますか?」と言うので、私は 「ゴルフができるようになりますか?」と不謹慎にも聞いたところ、 「水頭症にならなければ...たぶんできるんじゃないの」と苦悩の 表情を浮かべて答えてくれました。もう歩けないのかと思っていたのに、 ゴルフもできるかもしれないなんて、結構治るかもしれない。と勝手に 想像していました。
【 3.頭の管は大切に!】 「クモ膜下出血」の手術の後、とってもとっても大変なことが待って いました。
それは、頭のてっぺんから管を出して、髄液を抜いているんです。 看護婦さんから「その管は、とっても大切なもので、それが抜けると 患者さんは死にますから」と何度も何度も言われたことです。
無意識に患者の手が行かないように、手を常に縛っておいて下さい。 手術の後は、足も縛っていました。手術後に意識が戻って大暴れした のは後でお話しますが、その時も管が抜けなくて本当に良かったです。
いつも付き添っているとき、手が頭に行くとビックリします。たとえ その手が単に頭をかくだけでも... とっても神経がすり減って 疲れました。
そこで教訓です。「クモ膜下出血は手術後も管が抜けるまで大変だ!」
【 4.意識が戻り大暴れ!】 手術後、麻酔が切れて意識が戻ったとき、父親は大暴れしました。 手・足にはくっきりと青あざができておりました。
退院後にそのことを直接聞いてみました。
私:「麻酔が切れて意識が戻ったとき大暴れしたけど覚えてる?」 父:「覚えてるよ」 私:「何でそんなに暴れたの。無意識だった?」(手術前も無意識に 大暴れだったため) 父:「おまえね。夜寝たときは普通で、朝起きたとき手足が縛られて いてごらんよ。何で縛ってるんだ! 早くほどけ! と大暴れ するに決まってるじゃないか」 「だいたい私は、クモ膜下出血だってことも、救急車に乗った ことも、手術したことも知らないんだから。」 「いたずらに縛ってると思ったから暴れたんだよ」 私:「あー、そうだったの」「管が抜けなくて良かったね」 「足まで縛ってたのは大正解だね」「何で手だけじゃなくて、足も 縛るのかと思っていたよ」
手術後、2~3日間は、起きようとしていましたが、その後は管の 重要性を理解したらしく、起きようとしなくなりました。4~5日後 には、自分から手を固定するところに入れるようになりました。
手術から9日目に、ついに管を取りました。看病する側も患者も とっても安心した日でした。看病しているときは、管のことばかり 心配で見ていました。無くなってひと安心です。
【 5.ICUでの日々】 毎日、2時間おきに看護婦さんが「住所は?」「氏名は?」「電話番号は?」 「看病しているこの人は誰?」などを聞きます。毎回同じ質問なので あきちゃうみたいですね。
そのとき、「住所は?」「ニューヨークです」って答えたときは、本当に ビックリしました。ついに頭が変になっちゃった。と真剣に思いました。
毎回同じことを聞かれて、ふざけていたみたいなんですが、いけません 真面目に答えないと、本当に変になっちゃたときに分からなくなります からね。
聞く看護婦さんも大変です。患者が答えた内容が正しいか? 正しく無い か? 分かる質問じゃないといけません。ICUで2時間ごとに回診に 来る看護婦さんもたいてい違いますし...
さっきどんな質問をしたかなんて、どうでも良いことですものね。 要は、異常が出ているかを確認することが重要ですね。
【 6.頭の管がついに取れました】 病気の本人、看病の家族にとって一番の悩みの種。頭の管を抜く日がついに やってきました。看病する私は、退院の日よりもうれしかったです。本人も うれしいと思いますね。すぐでは無くとも、トイレもシャワーもあと少しです。
今は何と言っても、今はオムツ生活です。管が取れれば、食事も自分で出来 ますしトイレも行けます。ベッドに縛り付けられない自由な生活が待って います。
我々にとっても24時間の気の抜けない看病生活から、適当な看病生活に 移ることができます。看病していても「頭の管が抜けると死んじゃいます。」 と言う、看護婦さんの言葉が頭から離れませんでしたから...
あーやっぱり。頭の管が抜けるのは、とっても嬉しい!嬉しい!出来事です。
【 7.水頭症になるのかな?】 頭の管が抜けて次の関門は、「水痘症」です。頭に水がたまり、ボケのような 症状が起こるそうです。簡単な手術で治るそうですが、ならないに越した ことはありません。
「ボケ」これの判定も家族にとっては難しいですね。頭を手術しているので、 普通に話していてもボケてるような気がしているのに、さらにボケの症状が 出るとしたら、いったいどうなることやら...
せいぜい世間話をして様子を見るしかないですね。話をしようとしても、 頭が痛いのか、かったるいのか、すぐに寝てしまいます。寝ていては、 ボケの判定ができません。
となりのベッドの人に何の前触れも無く、いきなり戦時中の話を始めたときは、 おーボケだ!ボケだ! とボケを確信しました。その後しばらく様子を見て いましたが、ボケでもないようです。(何だったんだろう)
確信は無いのですが、小さい頃(子供の頃)の記憶が全面に出てくるのでは? と父親が「クモ膜下出血」になった人が言っていました。本当にそうだと すると解決できます。真相は如何に。
そうこうしているうちに「水痘症」の危険性はだんだん少なくなって行き ました。
【 8.大部屋での日々】 ついにICUを追い出され、大部屋に移る日がやってきました。大部屋と 言えば、普通の病気の人が居る部屋です。やっとここまで来たかと思うと 感無量です。もしかしたら、さらに回復して普通の生活に戻れるかも 知れません。
大部屋でも問題は、不眠症でした。夜寝そうになると誰かがトイレに行き、 寝られなくなるんだそうです。トイレに行くのにいろいろ音を立てるからだ そうです。(ちょっと神経質かも)
さらに、寝ようとすると、「うー」とか言ううめき声が聞こえて、寝られ なくなるんだそうです。そこで、登場するのが睡眠薬なんですが、これを 使うと、これ無しでは寝られなくなっちゃうんですね。
それともう一つの問題は、昼に良く寝てしまうんです。これが夜寝られない 最大の原因かもしれません。病院は、不思議と昼間はうるさくても、良く 寝られるんだそうです。不思議ですね。
【 9.ついに退院です】 とうとう、退院の許可が出ました。発症から1ヶ月です。点滴もしなく なって、だいぶたちましたし、病院内ならば散歩できるようになりました。 後は、自宅療養で時間の経過を待てば良いと、先生が判断されたのかも しれません。
とにかく退院です。長ーい、長ーい、1ヶ月間でした。退院で一番助かる のは、夜間看護している母親だと思います。
とにかく「退院おめでとう!」です。
【10.退院後の様子】 退院後は、調子の良いときに起きて、後は寝ている生活です。退院3日後に 会社に挨拶に行き、会社で目を通す書類を自宅に持ってきたみたいで、 起きているときは、会社の書類を見ています。
発症して、頭を手術しているので、頭が元通りなのか? ちょっと変なのか? 回りの人々には、分かりません。以前よりは、変なことを言わなくなった ような気もしますし、元通りだよ! と言われれば、そんな気もします。
頭の病気は、治っているのか? 病んでいるのか? 家族でも良く分かり ませんね。難しいです。つくづく今回のことで分かりました。
退院してからしばらくは、頭が痛いと言っては、薬を飲んで寝ていました。 それでも、しばらく日にちがたつと、だいぶ痛がらなくなり、薬を飲む回数 も減りました。頭を手術したわけですから、これからも頭痛とは付き合って 行くのではないでしょうか。
足の骨が折れて手術したとしても、足はしばらく痛いですものね。数年後に 雨が降る前に、ズキズキ痛んだりして... 頭を手術しているのですから 全部が全部、前と同じと言うわけには行きません。後遺症が無いというだけ でも最高だと思います。頭痛の痛みは本人にしか分かりませんけど...
【11.外来診察でのお話】 さて退院後は、病院の外来で診察を受けるわけです。約2ヶ月間 通いました。その後は、薬だけなので診察は無しです。
ある日の外来診察で、こんな会話があったそうです。
患者:「ゴルフをやっても大丈夫ですかね?」 先生:「無理しなきゃ大丈夫ですよ」 患者:「また(クモ膜下出血に)なったりするんですかね?」 先生:「検査しているから当分ならないと思いますよ」 患者:「また(クモ膜下出血に)なったらどうすれば良いんですかね?」 先生:「また手術して治して上げるから、また私のところに来なさいよ!」
主治医の先生は、後遺症も見あたらず、「良かった。良かった。」と言って、 上機嫌の内に外来診察を終了しました。
【12.クモ膜下出血の人々】 病気になるとまず気になるのは、自分の病気がちゃんと治るか? また、 同じような病気の人が、その後どうなっているか? です。同じ病気の 人が、みんな元どうりに治っていたら、自分も治ると信じられますからね。
さて、父親が「クモ膜下出血」になったと回りの人々に言ったところ、実に 多くの方々から話をお聞きしました。その中から3件お話しましょう。
一番いろいろ聞いたのは同僚のお父さんの場合です。 発症したのは、10数年前48歳のころだそうです。友人宅で突然具合が 悪くなり、友人宅に迷惑がかからないように、外の公衆電話から呼んだ そうです。(とても律儀な方です)
入院して手術を行い、2~3日は意識が回復しなかったそうです。その後 2年ほど家で療養していたそうですが、リハビリに励み何とか社会復帰 されたそうです。残念ながら、後遺症は少し残ったそうです。
同僚の叔母さんは、「クモ膜下出血」になり、手術をして治し、現在は 全く後遺症も無く、前にも増して元気にしているそうです。
知り合いのお父さんは夜に、「クモ膜下出血」になり、頭が痛いから少し 寝る。と言って布団で朝まで寝ていて、朝起こしに行ったところ、既に 亡くなられていたそうです。
などなどいろいろな方の話を聞きました。
お粗末な「闘病記」は、これで終了です。最後まで読んでくれて ありがとうございました。
26歳、男性:脳梗塞
ご本人がメイルで送って下さいました。
非常にお若くして脳梗塞を発症された、まれなケースだと思います。
ここに私が入院中に書いた手紙を公表します。
右手が使えない為、左手で書きました。この手紙を全国にいる会社の同僚、友達に送 りました。
B5レポート用紙に6枚、1日1枚のペースで書いた手紙です。
(でも、1枚書き上げるのに何時間掛かったことか)(笑)
私は日記をつけてませんでした。その為、この手紙が唯一の日記みたいなものです。
これを、「闘病気」に載せていただけたら幸いです。
—————————————————————————————————————————-
〇〇〇様
まず、左手で書いているので字が汚い、読みづらいなど、申し訳ありませんがお許し
下さい。←お世辞にも上手いとは言えない字だった
発病から現在(H10,5月現在)に至るまでの闘病の手記とお願いを手紙に託し送
りましたのでご覧下さい。
去年(H9)の11月24日、正確には11月23日の23:00~11月24日
0:00の間、突然口が曲がり、自分で普通に言ってるつもりでも相手には、何を言っ
てるのか分からない。
続いて右半身、右手足の麻痺、右手がグーのまま指が開かず右足は立つこともできず
倒れ、朝になり○○市内の病院へ行きました。
そこで点滴を1本注射しただけですぐに救急車を手配、行き先を教えられることなく
到着したところが、「○○大学医学部付属病院(以後、○大)」でした。
○大ですぐにMRI、CT etc… 検査をして、その結果が脳血栓と原発性抗リン
脂質抗体症候群の合併症、のちに脳梗塞と診断され緊急入院となり、自分では「2,
3日で良くなる」と思っていたのですが、長期入院になり、また、担当のドクターか
ら100%治らないし後遺症が残ると言われ、ショックでした。
会社の人、親戚、多くの友達、遥々仙台からも見舞いに来て励ましてくれましたが、
右手が「グー」のまま、立つことさえできない自分が情けないことを、今でも覚えて
います。
○大入院の初め3日間は絶食、10日間を24時間点滴しっぱなし。また、導尿をつ
け、身動きとれない状態で苦痛そのものでした。脳梗塞が原因で命が危うく、死ぬと
ころでした。
後日、MRIの写真を見せてもらい、脳の左半分が「真っ白」なことに気が付きドク
ターに確認したところ、左脳半分が死んで脳細胞は復活しないとのこと。ただ、写真
に写らない細かな毛細血管がバイパスされ極僅かな細胞が生きてる状態とのこと。
(右脳は正常、普通は黒く影になって写真にでる)
左脳がほぼ全滅、つまり、死んでしまったのです。現在(これからもそうですが)も
脳の半分が死んでます。話しをする時に、時々呂律が回らないし、記憶の一部を忘れ
ることもしばしば、右手は飾り、右足はびっこ引いて歩くなど。
10日間が過ぎ、○大でリハビリが始まりました。と、同時に本当の意味で自分との
闘いが始まりました。
リハビリでは手と足で異なり、手が「作業療法」、足が「理学療法」と、まずは作業
療法から説明します。
閉じた手を開き、指が動き、握力が正常になるようにと、リハビリメニューが組み込
まれました。最初はお手玉を使った訓練でした。右から左、左から右へと、移動す
る。たったこれだけの動作なんですが「グー」の状態から手を広げる、困難でした。
また、カップ(名前が分からないので)を左右に動かす。また、電気を掛ける、これ
が最初のリハビリメニューでした。
「理学療法」は、立つこと、歩くこと。これがリハビリメニューでした。
○大では車椅子の生活。その為立つことが恐かったこと、今でも思い出します。
例えで言うなら「フランダースの犬」に出てくる、クララ、そのクララが車椅子から
立ちあがるシーンがありますよね。(知ってる人、いますか?)
丁度、あの感じです。
杖と使い引きずる足を上げ、歩く。また、階段の昇り降り、腹筋、お尻の上げ下げ、
這うようにして、ほふく前進のような感じであるく。
こんな感じでリハビリをしました。
ドクターが「手術しないでリハビリのみでやる」と、言ったときは、不安でした。
しかし、ドクターを信頼するしかなかった自分は「不安」と、言っていられませんで
した。
その後、3週間が過ぎ、○大から○○○村にある、「○○○リハビリテーション病
院」へ転送してきたのが、12月16日、世間ではクリスマスとか師走の忙しい、そ
んな時期でした。
正月も病院で過ごし、寂しかったものです。
○○○に来てからのリハビリは、○大とさほど変わり有りませんが、理学療法は○大
にいた時のほかに自転車を扱いでいました。(スポーツクラブにあるような感じのや
つです)
その自転車を毎日1時間、負荷(錘と言えばいいのでしょうか?)を、最初は40
w、慣れてきて、今では130wで扱いでいます。分かりやすく説明すれば、坂道を
全力で扱ぐようなもので、汗が止まらない感じです。そのお陰で随分と痩せました。
(発病時が95kg、○○○にきた時で90kg、現在(この手紙を書いてたとき)
72kg、退院後の現在は65kg~68kgを行ったり来たり)
作業療法は64本のピンをひっくり返し、ネジを左右に移動(掴むのがやっとの小さ
いネジ)、36本のの棒を、右腕の肘を曲げないようにして左右に移動、輪投げ、握
力を付けるために、グリップを握る、そして最後に手に1kg、棒に1kg、計2k
gのウエイトを付け、勾配が50゜の台の上を滑らす訓練、これを、10分間。この
最後の滑らす訓練が一番つらく、腕が棒のように疲れます。←自分の腕じゃないみた
い??
それとは別に、訓練の時間以外にも、「自主訓練」と、言うことで、いろんなことを
実践してきました。だって空き時間を有効に使わないと、勿体無いような気がしたん
です。←これが利いたのか、かなり回復が早かったような気がします。
階段の昇り降り、初めは少しずつでしたが回数を重ねる度に500~1000回、2
kgの鉄アレイを左手で500~1000回、右手で100回、ゴムボールを左手で
300回、右手で100回、最後に「くるみ」を2コ手で動かし、ベットで腹筋、休
みながらですが50~100回、と自分で 出来そうなことはやって来ました。
その後、作業療法も、メニューが増し、利き手交換ということで、左手を使った訓練
も始まりました。もちろん右手は今まで通りのことはやってきてるのですが。
左手で字を書く、御飯を食べる、日常の動作を左手でやると言うものです。それに、
「右手の機能が70%までしか回復しないとしたら、左手で130%の機能を身につ
けないとだめだ!」と、言われました。確かに一理ある話しではありますが、この、
「利き手交換」すごい時間が掛かりました。
この手紙を書けるまでに半年は掛かりました。
平成10年5月24日で入院から半年、身体障害者手帳の申請します。(現在交付済
み)
受理されると、障害者確定。悪く言えば障害者と言う理由で、何かと不便になるで
しょう。
自分は会社を2月25日で解雇され、(現在は復職可能になるようにと、色々手
続きしてくれた。感謝です♪)また、結婚する予定だった女性に、病気が理由で別れ
ることになり死を覚悟しました。
「生きてても周りのみんなに迷惑が掛かる、それに、長年付き合った女性と別れるこ
とになった。」
そう思ったんですが死ぬことが出来ませんでした。
婚約者の女性とは、高校からの付き合いでした。その間に色んなことがありました。
結婚の話しになった後の病気だけに、随分悔しい思いをしました。「なんで脳梗塞に
なったんだろう?」「病気にさえならなければ…」立ち直るまでに、時間が掛かり
ましたが、今は「縁がなかった」と思うようになりました。1度目は病気で、2度目
は死ぬ覚悟だった自分を多くの友達や家族など、励まし勇気を与えてくれ、不自由な
体にもめげず頑張って生きていこうと思ったのです。
3月になり、同僚から復職できることを聞かされました。
自分の保険契約は同僚が代理で行うとのこと。また、字が書けて、車の運転できるこ
とが復職の条件なのでリハビリを現在も続けています。こうして字を書くこともリハ
ビリなのです。
復職できるきた時、言葉では言えない感謝の気持ちで涙が止まりませんでした。
今、自分で出きること、入院していても出きること。多くの人に手紙を書く、これく
らいしか出来ませんが退院後、お礼を兼ねてそちらへ行こうと思います。その時はご
迷惑をかけると思いますがよろしくお願いします。後日、改めてこちらから連絡しま
す。
50 歳代、男性 ( Milds Haraさんのホームページにリンク):脳梗塞
38歳、男性:くも膜嚢胞
38歳の男性が、くも膜のう胞の開頭手術を受けられた体験を書いて送って下さいました。
全国からたくさんのE-mailが届いていることでしょう。処理をされている 方は大変だとは思いますが、このホームページをみて勇気づけられる方も多いことと思いますので、是非ともよりよいものにしていただきたいと思います。 申し遅れましたが、○○と申します。○○県在住です。私も開頭手術を受け、年が明ければ発病後2年がきます。(1996年1月6日発症・同年2月13日手術)年齢は、38歳です。発 病当時36歳 まさかの出来事でした。
運動能力は人一倍あり、趣味が磯釣りなもの で重い荷物を背中に担ぎ急な山道を歩き、先輩と釣りに行っておりました。(余談)
発病までは、全く前兆などはなく就寝後突然現れた。 その年の初釣りから帰り、22時就寝したところまでは記憶があります。 気がつくと目の前にぼんやりと金色の星のようなものがあるのです。それから徐々に意 識が回復し、よく聞くとせき込むような声を出して全身が痙攣を起こしていたそうで す。急いで救急車を呼び、目の前に見えた金色の星のようなものは、救急隊員のヘル メットの星であり私に呼びかけてくれていたのです。
その後意識ははっきり回復した ので、自宅の車で○○病院に行き診察を受けましたが、当番医が精神科のドクターだ ったため明日外来にくるようにということで帰宅し、床につきました。がまたしばら くして先ほどよりひどかったのでしょうネ、痙攣が起きまた救急車を呼び今度は意識 は回復せず運ばれて行き入院となったのです。
2回目は口から血を流し、すごい力 で痙攣しているので家族のものはものすごくびっくりしたそうです。特に長女は恐怖 から、もどしていたそうです。 就寝してから1日以上の記憶はありません。
CT検査・MRI検査を直ちに行ったところ、私の右脳硬膜下には直径4~5cm の球形の固まりがあり(小さなミカン、1個分くらい)左脳に大きく圧迫をかけ脳の 中心線がずれ曲がっていたのです。初めてMRIのフィルムで自分の頭の病気の部分 を見る。とても自分とは思えず恐怖感はありませんでした。以後もすべてに恐怖感は ありませんでした。最近になり一時再手術(可能性としては今現在でも30%程度あ るようですが)ということもあったのですが、このときになり初めて恐怖感を感じま した。こんなに辛い期間を過ごそうとは予想もしていませんでした。
病名は「くも膜 のう胞」ということでした。この病気は、発病しなければそのままという人もあるそう ですが、私の場合は痙攣を起こしたり、脳の中心がずれていたりしていたのでDSA、 脳槽造影などの造影検査を行い、この固まり(固まりといいましても中は髄液 のような液体です)に膜があるかどうかを検査し、開頭手術ということになりまし た。検査の結果は膜があり、脳にへばりついた膜を取る手術になりました。というこ とは・・・脳に傷が入る・・・・後遺症が残るのでは・・・・・・ということを一番 心配しました。
脳には各担当があることはご存じでしょうが、私の場合「手・足の動 きをつかさどる運動分野」であったため手・足の麻痺を心配しましたが、後遺症もな く9時間の手術時間を要し成功したということです。
1996年
1月 6日・・・・・救急車で運ばれる。手術までの期間各種検査
2月12日・・・・・手術前日、広島から母・弟来る。髪の毛そる。頭部にマーキング、入浴
2月13日・・・・・手術当日、点滴等手術搬入準備、9:00手術室搬入、直ちに麻酔開始(意識がとうのくのを確認・・・) 手術終了・・呼びかけで目を覚ます。 CT検査道中がとても寒い。ICUにもどり7~8回あったと思けど痙攣を起こす。 このため気管内挿入される。のどが痛い。看護婦さんと筆談する。
2月14日・・・・・14日と思うが、個室に移動、食事がのどを通らなくほとんど残すことが多いため、栄養士さんが直接食事指導のため来られて、 おにぎりなどにしてもらう。(2週間の個室生活の始まり、 終わり頃には悪夢を見るようになった。)
2月27日・・・・・大部屋に移動、MRI検査、今にも痙攣が起こりそうになる感じを受けるときがある。
3月 5日・・・・・日記久しぶりに書き始める。体重が約10Kg減り、併せて筋力も衰退し歩行器がないと、手すりを持たないと、介添えがないと一人では歩行できなくなっていた。食器なども、 他の付き添いの方に運んでもらう。
3月10日・・・・・リハビリに行くように指示される。
3月25日・・・・・病院の中庭に植えられた木々が、着々と春の準備をして いることが日々見てとれる。同室の患者さんと、退院は桜の 花が咲く頃よなと、時間をもてあます。
3月30日・・・・・約3ヶ月ぶりに不安を抱えながら、久しぶりに外泊する。
4月 5日・・・・・退院する。今後の予定は2週間自宅療養、後仕事に復帰 異常に肩が凝り、すごく不愉快(今考えれば、四十肩の始ま りでしょう。)
4月15日・・・・・MRI検査(脳内に血液まだある。ほかへの圧迫なし)
4月18日・・・・・仕事に復帰
5月21日・・・・・再入院。以前から顎のかみしめ感などがあったが、昨夜は食事中箸を 持っている手が痙攣を起こし、すごい力が入り意識はあるが、箸を取り除くことができないくらい力が入るため、担当医師に電話し診察、入院
5月22日・・・・・一日中数え切れない細かな痙攣が続く、特に横になったり、ましてや消灯後の暗闇で寝付くまでなどは恐ろしいほどの痙攣が襲ってくるのです。
5月28日・・・・・この病気の原因は、生まれつきの異常ということが可能性としては大きいらしく、36年間もこの病気を育ててきたので痙攣もしつこいとのことであった。
6月 5日・・・・・CT検査の結果、頭内の血液のたまりが直径1.5cm程度まで 縮小している。薬の量種類が増えていく。
6月12日・・・・・入院のついでに、眼科でコンタクトレンズをつくる。検査時に、眼球が「円錐角膜」であることが分かり年1度の検査を するように言われる。・・・最悪の場合は、角膜移植をしなければ いけない。とのこと(現実味はないが、少しショック)
6月18日・・・・・退院(19日から仕事)
7月11日・・・・・MRI検査の結果、頭内の血液のたまりが直径1.5cmは変化なし
7月19日・・・・・両肩関節、右股関節あまりに痛いので整形外科に通院。身体の歯車がいったん狂うと、どんどん狂う
8月,9月・・・・・定期的な通院・軽い痙攣(特に夜中はひどいときがある)肩、股関節の痛みが続き服も着れない、風呂では身体の後ろが洗えない
10月21日・・・・・MRI検査の結果、頭内の血液のたまりが直径1.5cmは変化ないようだ、このままでも特に問題はない。関節痛のリハビリのため仕事帰りに寄れる病院を紹介してもらい、毎日通う。 開頭した場所の骨が、痩せまた少し陥没してきて外見から手術場所が はっきり分かるようになる。
1997年
1月12日・・・・・MRI検査の結果、頭内の血液のたまりが二つに分割している。*執刀医は信頼できる人です。だが、外来での患者との対応で少し見放したような言い方をされるため、何かと薬を追加されるため いやになってきた。そのため、入院当初担当医になるはずであった先生の外来日に通院日を変更し、今現在もその先生に細かな指導を 頂きながら療養している。絶対信頼関係が必要です。定期的な通院・軽い痙攣(特に夜中はひどいときがある。) 肩、股関節の痛みはあるが、わりとと安定した期間
6月13日・・・・・再入院(また止まらない痙攣が起こり始める)MRI検査・脳波等の検査「今は薬で痙攣を抑えるしかない」---薬の種類を変更、血中濃度の調整(このとき大発作を起こす可能性もあるので、 大事をとり入院(仕事もできないけど)
7月18日・・・・・退院(25日から仕事)
11月16日・・・・・退院後も2Wに1回の通院(採血・薬の増量)・最近になり薬の増量も一段落(痙攣もわりと少なくなってきた)
間もなく術後2年にまりますが、この2年間は肉体的に、精神的に、また見えない 部分で辛い2年間でした。
(1)術後、痙攣(症候性てんかん)の頻発で2回の入院(トータル入院月5ヶ月)
(2)入院生活の長期化による体力の衰退(著しい)
(3)初期の入院での術後身体の管理方法誤ったため、この歳で四十肩になり両手が前に90度など服を着たり、夜寝返りをするにも激痛がはしり、今でも完全ではないが1年半の時間をかけてやっと日常的に生活で きるようになった。
(4)開頭したところの融合に時間がかかり最近やっとましになってきたが、走るなどの衝撃のある運動をすると頭に響いたり、目の奥の方が痛くなったり手で押さえると沈んだ感じがする。
(5)職場に対する不安(途中であきらめたけど) 書けばきりがない、今こうしてパソコンを操作し全国の人と画面上でコミニュケーシ ョンができることをうれしく思います。この2年間に恥ずかしい話ですが、一番働き 盛りでバリバリでなくてはならない自分のことを考えると情けなくて、2回泣きまし た。しかし、現実はそんな感傷的な自分をいつまでもその場にとどめてはくれず、ど んどん進んでいきますからともに歩むしかありません。
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